The Rock Freaks Vol.14 | 日野”JINO”賢二
アーティストとフェンダーによるケミストリーを写真で切り取るエキシビジョンシリーズ「THE ROCK FREAKS」。第14回目は、フェンダーとのエンドースメント契約を発表した日野”JINO”賢二が登場。
演奏中は特に何も考えていないんだ。呼吸と一緒だよ。
世界で活躍するスーパーベーシスト、日野”JINO”賢二(以下:JINO)。ジャコ・パストリアス、ハービー・ハンコック、ハイラム・ブロック、マーカス・ミラー…今までJINOが一緒にプレイをした海外ミュージシャンの名前を挙げるだけで、この原稿の文字数を使い切ってしまうはずだ。
そんな世界一流のミュージシャンだと、とっつきにくい人物を想像する人がいるかもしれないが、JINOほど誰に対してもフランクな人はいない。この日も取材現場に到着するなり、取材クルー全員に笑顔で握手をしながら挨拶。しかも全員と何かしらの会話をして、取材現場の雰囲気をまるで手品か魔法のように明るくしてしまう。人種のるつぼ、NYで育ったからなのかもしれないが、世界で活躍するスーパープレイヤーにもかかわらず、このフランクさとコミュニケーション能力の高さには会うたびに感心してしまう。
JINOがベースを始めたきっかけは3つあるそうだ。
「僕が14歳ぐらいの時、兄貴が誕生日祝いにベースを買ってもらったんだ。フェンダーの66年製のMustang Bass。親父(日野皓正)はツアーでほとんど家にいなかったので、その兄貴のベースの奪い合いになったんだけど、兄貴よりも俺のほうが上手くなって、そのベースをもらうことに成功したんだ!」
そう屈託ない笑顔でベースとの出会いを話してくれた。2つ目は、父親である日野皓正のOKだという。
「ニューヨークにあるラガーディア高校(LaGuardia High School of Music & Art and Performing Arts)に、僕はトランペットで試験を受けて合格したんだ。トランペット以外にも、鍵盤を弾いたしドラムも叩いた。でもある時、親父に聞いたんだ。“トランペットで勝負しても親父には勝てないよな?”って。親父は“お前のトランペットなんかエレベーターの中のBGMみたいなもんさ。俺に勝てるわけない”と言うわけ。他の楽器も同じ。ただ、地元のケーブルテレビに出演した時に弾いたベースを親父がたまたま観ていて、“お前、ベースはイケてるぞ!”って太鼓判を押してくれたんだ」と、トランペットからベースに転向したきっかけを教えてくれた。ちなみにその後、日野皓正は学校の校長に連絡し、学校での専攻もトランペットからベースに転向させるように話をしてくれたそうだ。
高校2年のある時、先生から“先輩たちと一緒に演奏するから観に来なさい”と学校に呼び出された。行ってみると、先生が一緒に演奏していたのが、マーカス・ミラー、オマー・ハキム、バーナード・ライトといったスーパープレイヤー。その演奏を目の当たりにし、音楽で、そしてベースで勝負していくことがハッキリと決まったという。これが3つ目だ。
Photograph by Maciej Kucia
ベーシストとして歩み始めたきっかけを話しているうちに、懐かしそうな表情を浮かべ、こんなエピソードも教えてくれた。
「最初に手にしたのがMustang Bassだったでしょ? でも、どうしてもJazz BassとPrecision Bassが欲しくてさ。学校の教科書にジャズベとプレベの絵を描いていたぐらい(笑)。それくらいフェンダーのベースに憧れていたんだよ」
懐かしいエピソードはまだまだ続く。ベーシストの道を歩み出したJINOは、早々にとんでもない人と出会うことになる。エレキベースに革命をもたらしたジャコ・パストリアスである。ジャコとの出会いを、JINOはこう回想する。
「学生をしながら親父のローディーをやっていたんだ。ある時、楽屋に1人の男が現れて“俺が誰かわかるか?”と聞いてきた。すぐに“イエス! ジャコ・パストリアスだ!”と答えたよ。ジャコはとても嬉しそうだった。それからジャコを楽屋にいる親父のもとに案内したよ。その日のライヴが終わったあと、親父が改めてジャコに俺のことを紹介したんだ。“こいつは俺の息子なんだ!”って。ジャコはまたニッコリと笑って、“彼は俺の新しい弟子だ!”と言い放って周囲は盛り上がったよ」
それからジャコとの親交が始まった。大学に入学すると、JINOは家を出て友人とロフトを借りて生活をしていたそうだが、そこにジャコがやって来て2週間ほどセッションに没頭したこともあるそうだ。81年に35歳の若さで亡くなったジャコだが、ジャコとの想い出を語るJINOはとても誇らしげな顔をしていた。
ニューヨークで凄腕のミュージシャンたちとセッションを続け、ベーシストとしてめきめきと実力をつけるJINOに、そう遅くないタイミングで日本でのデビューの話も舞い込んだという。だが、デビューのためにはダンスを勉強したり歌ったりしないといけないという条件がついてきた。
「僕がやりたいこととは全然違ったので、デビューの話は断ったよ。おかげでニューヨークで貧乏暮らしのままだったね」
だがその実力を世界が放っておくはずもなく、アポロシアターの専属バンドなどを経て、JINOはその頭角をニューヨークで、そして世界で表すことになった。メイシー・グレイ、ジェフ・ミルズ、ジェシカ・シンプソン、MISIA、西野カナ等、数々のアーティストとのライヴ、レコーディングを手がけ、今、JINOは間違いなくベーシストとして世界を股にかけて活躍している。そんな彼が、フェンダーとエンドース契約を結んだ。
この日一番の笑顔で「僕にとってフェンダーとエンドース契約を結べることは、まさに“Dreams come true”だよ。だってさっきも話した通り、10代の頃、学校の教科書にジャズベとプレベの絵を描いていたぐらいだから」と、その喜びを表現した。JINOはこれまでにフェンダー以外のベースも弾いてきた。だが、ようやく辿り着いたエンドース契約に迷いはない。
「フェンダーのベースが世界一なのは間違いないよね。フェンダーのような音を出そうと頑張っているメーカーは世界中にあるけど、フェンダーにしか出せない唯一無二の音だから。80年代の一時期、フェンダーのベースを買わなかった時期があるけど、そのあとはずっとフェンダーのベースを買ってきたし、レコーディングやジャムセッションでも使い続けてきたんだ」
このタイミングでのエンドース契約について、こんなエピソードを教えてくれた。
「いま僕はMISIAのバックでベースを弾いているんだ。今年の初めのライヴでは1曲だけフェンダーのベースを弾いていたんだけど、MISIAに言われたんだよ。“他の曲も全部フェンダーのベースで弾いて”って。そのあとにエンドース契約に至ったんだけど、もう運命というか必然だと思う。このエンドース契約は。」
JINOのとびきりの笑顔は、トークだけではなくもちろん演奏中もそうだ。“何でそんなに楽しそうにベースを弾けるのか?”と野暮な質問をぶつけてみた。
「演奏中は特に何も考えていないんだよ。呼吸と一緒だよ。でも、余裕があると楽しいじゃん? バッティングセンターで速い球が打てるようになると、余裕ができて、打つことが楽しくなるだろ? そんな感じだよ。だから余裕は大事だよね。それと、音楽そのものがコミュニケーションだからね。楽しんでいないと、バッドなコミュニケーションになっちゃうから。僕よりすごいミュージシャンはまだまだたくさんいるけど、ここまで来れたから、僕は若い世代にこれだけは伝えようと思っているんだ。音楽は楽しむものだぜって!」
そう話すと豪快に笑った。彼はこれから、フェンダーのベースを持って世界を周る。そして、彼のベースが鳴っている場所では決して争い事が起きないのだろう。JINOはそんな魔法をかけられるミュージシャンだ。武器の代わりにみんなが楽器を持てばいいのに、JINOを見ていてついそんなことを思ってしまった。スーパープレイヤーと言われる所以である。
日野”JINO”賢二
幼少の時、父である日野皓正(トランペッター)とともにNYに移住。9歳よりトランペットを始め、16歳でベースに転向。17歳の時、ジャコ・パストリアスに師事する。19歳よりプレイヤーのみならずミュージックディレクターとしてプロ活動を開始。89年にはアポロシアターのハウスバンドの一員として出演。その後、父の日野皓正や叔父の日野元彦のアルバムに参加、NYブルーノートなどのライブハウスを中心にベーシストとして活動。2003年、アルバム『WONDERLAND』でのデビューを機に本拠地を日本に移して活動。数々のライヴサポート、レコーディングワークと共に、エレクトロニック・ジャズ・カルテット SPIRAL DELUXEでの活動や、ジャズ、ファンク、R&Bをクロスオーバーさせた自身のプロジェクトJINO JAMなど、多岐に渡って世界の音楽シーンで活躍するスーパーベーシスト。
› Website: https://www.jinobass.com