Cover Artist | BLUE ENCOUNT -前編-

みんなに言いたいんですよ、バンドドリームはあるんだよって

Blue Encount

メジャーデビューから5年。破竹の勢いでロックシーンを駆け上がっているBLUE ENCOUNT。そのフロントマンである田邊駿一(Vo,Gt)と辻村勇太(Ba)がFenderNewsに登場。前編では、楽器を始めたきっかけから現在に至るまでのミュージックヒストリーを語ってくれた。

可能性を広げてくれたBLUE ENCOUNTについて行けば間違いないなと
 

― まずは、音楽と楽器に目覚めた瞬間から教えてください。

田邊駿一(以下:田邊) 僕が音楽に目覚めたのは、高校1年の時に森山直太朗さんに影響を受けてから。それでアコギを始めたんです。

― 今の音楽性とはだいぶ違いますね。

田邊 バンドをやりたいと思ったのはその後で、直太朗さんから何となく友達とバンドをやり始めたんです。で、そのバンドのラストライヴの時にギターの子が“ちょっとこの曲をコピーしたいんだよね“って聴かせてもらったのが、ELLEGARDENの「スターフィッシュ」だったんですよ。“うわっ! 何これ! 外タレが日本語で歌っているの?”って衝撃を受けて、それで初めてコピーをして、“こういうバンドがいるんだ。歌ってて気持ちいいな”と思ったんです。で、“こういうバンドがやりてぇ!”って25年前に一緒の軽音楽部だったギターの江口(雄也)とドラムの高村(佳秀)の3人で結成したのがブルエンです。それから20歳の時に夢見るバンドマンとして上京して、進学した音楽専門学校にいたのが辻村です。

辻村勇太(以下:辻村) そうですね。専門学校で出会いました。

― なるほど。辻村さんのミュージックジャーニーはどんな風に始まったのですか?

辻村 僕は親戚がアコースティックギターを弾いてて、何となくやりたいなと思ったのが最初です。その時にゆずとか19が好きだったので…。年齢で言うと小6か中1くらいですね。何となく弾いていたんですけど、やっぱり難しくてちょっと諦めかけていたら、友達にめちゃくちゃ歌もギターも上手い奴がいて、そいつにギターを教えてもらったんです。それからSNAIL RAMPというバンドを中学の時に聴いて、“こんなに激しくてカッコいいバンドがいるんだ!”と思って、エレキギターを買ってみんなで練習していたんですよ。ただ、その時はちょっとヤンチャな時期でもあって、学校をサボってみんなでギターを弾いていたら、ワルイ先輩に脅されて“お前らバンド組むか? どうすんだ?”みたいな感じで強制的にバンドを組まされたんです。

― なるほど(苦笑)。

辻村 “じゃあバンド組みます!”とその時にいた5人でバンドを組んだのですが、そのうち1人はドラムを前から習っていて、残りの4人はみんなギターだったんです。ギターはポジション争いが大変だけど、ベースってないなと思って(笑)。

― ベースあるあるですね(笑)。

辻村 率先してベースをやりました。で、中2の時に初めてライヴをしたんです。高校生のヤンキーの先輩の中に混じってのライヴで、その時にTHE BLUE HEARTSやMONGOL800をコピーしたんですけど、めちゃくちゃ盛り上がって、感動しちゃって夜眠れなくなっちゃったんです。“このままみんなでデビューまで頑張ろうよ”という話にはなったんですけど、中学卒業したら解散しちゃって。それからひたすらバンド募集の掲示板などでバンド探しをしました。成人のサラリーマンバンドも含めて20〜30組と会いましたね。それでもいいバンドとは巡り会えなかったけど、高校卒業して専門学校でブルエンと出会ったんです。

― 辻村さんをメンバーに決めた理由は何だったんですか?

田邊 僕らは20歳の頃に上京して専門学校に入ったわけですけど、辻村は19歳の時に先に専門学校に入っていたんです。

辻村 1個下なんですけど、学年的には僕のほうが先輩で。

田邊 その時かなりブイブイ言わせてたんですよね(笑)。当時は見た感じも90キロくらいあったしね。

辻村 そう、100キロ近くありましたから。で、B系の服を着てロン毛みたいな(笑)。

田邊 すごかったよねぇ(笑)。ただ、本当にベースの腕はピカイチ。で、授業の一環で『Music Revolution』というバンドの大会があって、それに1年生がバンドを組んでみんなで出ましょうということになったんです。学校も“あなたたちはブルエンというバンドを組んでるので話が早いな”って感じだったんですけど、“でもベースがいないです”と言ったら“一番いいヤツがいるから”といきなり飛び込んできたのが、学校一のプレイヤー辻村だったわけですよ。ただ、その大会が終わるまでのヘルプのつもりだったのに意外にも勝ち進みまして、Zepp Tokyoでやった東京大会で優勝したんですよ。で、全国大会に行くぞみたいな感じになって、“つーじー、入っちゃう?”みたいな。

辻村 大会の楽屋で言われたね。正式に入ってくれって。でもその時、他に6個バンドを組んでいて。

田邊 すげぇな、おい!

辻村 横浜に本命のバンドがいて、あとはサポートという形だったんですけど、本命のバンドが低迷していて。僕はライヴハウスで働きながらバンドをやっていたんですけど、Zepp Tokyoでライヴをするとか、僕の可能性を広げてくれたという意味ではBLUE ENCOUNTについて行って間違いないねぇなと思って。だから断る理由もなくて。で、横浜のバンドには“俺、BLUE ENCOUNTにいくから”と言ってきっぱり辞めて。で、ブルエンに絞ってやり始めましたね。

田邊 そうして今のメンバーでのブルエンが始まったわけですが、結局、全国大会で箸にも棒にもかからずで。


生き様を共有し合って
最高の景色を作るのがライヴ
 

― ブルエンって“熱血”とか“号泣”と言われる熱いロックバンドですよね。そのあたりのバンドのアイデンティティはどこから?

田邊 そのあとですよね。しかも、今のライヴスタイルはそれこそ辻村が開拓してくれたと言っても過言ではないんです。というのも、代々木のスタジオで深夜練習していた時に、辻村から“お前らこんなんじゃダメだよ!”って言われたんですよ。ちょうど大会もあったので、大人からも“ライヴってこういう風にやるんだよ”っていう How toを教え込まれて、しっかり弾く真面目なバンドだったんですよ。それに対して辻村が“そんなんじゃ面白くねぇじゃん。俺らが好きなバンドはそうじゃねぇよ”みたいな感じで、予定していたライヴの6曲30分をグルーヴとか気にせずに夢中で演奏して、ハアハア、ゼエゼエやっているところに辻村が“よし! じゃあこのままでもう1回通すぞ!”と言って演奏したら楽しくて。その日から、熱くライヴをやりたい、やっぱりこっちのほうが楽しいよねってなったんです。

― ライヴって発表会じゃなくてドキュメントですもんね。

田邊 でも、その極論に気づいたのはここ1〜2年だと思います。いわゆる生き様を投影するもの。その生き様を共有し合って、最高の景色を作るのがライヴだなってことにやっと気付けた感じはあります。

辻村 最初の2〜3年は自分らのCDを持って、4人で車でひたすらツアーを回って。その頃、年間のライヴ本数いくつだっけ?

田邊 300本くらい。

辻村 ほぼ毎日ライヴしてたよなぁ。お金もなかったし、炊飯器を持ちながら機材車で走り回っていた時代があって。その頃は毎日ライヴに対して4人で考えて、こうしなきゃって話し合って。それからですね、田邊の熱いMCが出てきたのは。目の前のお客さん…しかも1〜2人しかいないのに必死にどうにかしようと思って。その時はCDの売り上げが生活のすべてだったので、“CDが売れたらいいライヴだったんだろうね”とか、ダメだったら何で売れなかったんだろうとみんなで話し合っていましたね。そういう僕らの状態にフィットしたのが、今みたいな熱いライヴだったのかなって。ツラかった気持ちをライヴで叫んで、ライヴでアウトプットできた部分もあったので。

田邊 10年というインディーズ時代は長かったですけど、あれがなかったらたぶん本当に今勝てなかっただろうなってすごく思いますね。

― そこでバンドとしての基礎体力が鍛えられたと。

辻村 力はけっこうついたと思います。

田邊 でも、やさぐれてましたけどね。最終的には。

辻村 九州まで車で10時間くらいかけて行って、お客さんが2人ですからね。やられるよね、あれは。

田邊 お客さんの前でライヴをするというより、ライヴハウスの人に会いに行くみたいな(笑)。ライヴハウスの方と打ち上げに行って、お酒を飲んで、“お前ら全然客増えないな”みたいな感じで。

― どうしてバンドを続けられたんですか?

田邊 もうこれしかなかったので。親が何かを経営して、それを継げるような家庭だったら良かったですけど、4人ともそういう家庭じゃないし、退路を絶って音楽をやっていましたから。バンドを辞めてバイトでつなぐ、ライヴハウスのブッキングマネージャーになる、いろいろ考えましたけど、どの選択肢も面白くないよなって。辞めたところで、たぶん1年後くらいに“ああ、もうちょっとやっとけば良かったな”と思うのかなって。だったらもう1年、もう2年っていう気持ちを毎年更新するような感覚でした。

辻村 僕は親に、25歳までに売れなかったらバンドを辞めるっていう話をしていましたね。

田邊 言ってたね。

辻村 そしたら、25歳になった時くらいからお客さんが入るようになって状況が変わって。あと1年待って、あともう1年待ってと言って、結局はメジャーデビューまでいけたんですけど。

田邊 5年前、俺らが26〜27歳の頃にメジャーデビューしてるから、本当にギリギリでしたね

― でも、2014年にメジャーデビューしたあとは、2016年に日本武道館ワンマンを成功させるなど素晴らしい活躍ですよね? 今年もシングルだけでも2枚リリースしていますし。

田邊 今年もシングルが2枚でアルバムが1枚なので、かなりコンスタントに制作はしていますし、現在はツアー中でもあります。本当に今年はメジャーデビュー1年生の時よりも忙しいです。

辻村 今までで一番忙しいんじゃない?

田邊 忙しいですね。本当にお休みもほとんどない状態でずっと走らせてもらっています。だから、高校生の時に夢見ていた音楽で生きるスタイルが今ですね。寝る時間はツアー中で、それでも打ち上げに行くみたいな(笑)。結果、寝る時間ねぇじゃん(笑)!

― でも、最高ですよね?

田邊 本当に最高ですよ。今回のツアーは、かつてお世話になったライヴハウスでまた音を鳴らすツアーなんです。それこそ、ずっとお客さんがいない時に会いに行っていたライヴハウスの人たちが、今は僕らがライヴしに行くとすごく喜んでくれるんですよ。その人たちも日本武道館とかアリーナに呼べた時はすごく嬉しかったので、ある意味、今回その恩返しができるのかなって。

辻村 だから、飲まずにはいられないですね。

田邊 うん。だから、みんなに言いたいんですよ。バンドドリームはちゃんとあるんだよって。楽器やってて良かったし、バンドをやってて良かったですよ。

› 後編に続く


Blue Encount

田邊駿一:Made in Japan Modern Telecaster® HH(左)
辻村勇太:American Elite Jazzbass(右)

PROFILE


BLUE ENCOUNT
熊本発、都内在住4人組。熱く激しくオーディエンスと一体になり、ダイレクトに感情をぶつける熱血なパフォーマンスが話題のエモーショナルロックバンド。メンバーは、田邊駿一(Vo,Gt)、江口雄也(Gt)、辻村勇太(Ba)、高村佳秀(Dr)。2014年9月にEP「TIMELESS ROOKIE」でメジャーデビュー。2015年1月にリリースした1stシングル「もっと光を」は、新人ながら全国35局でのパワープレイを獲得。2016年10月には日本武道館ワンマン公演、<LIVER’S 武道館>も大成功に収める。メジャーデビュー5周年、バンド結成15周年となる2019年、6月からバンド史上初のホールツアー<BLUE ENCOUNT TOUR 2019 apartment of SICK(S)>を開催、ミニアルバム「SICK(S)」リリース、9月には日本テレビ系ドラマ「ボイス 110緊急指令室」主題歌「バッドパラドックス」シングルリリース、11月には読売テレビ・日本テレビ系アニメ「僕のヒーローアカデミア」第4期オープニングテーマ「ポラリス」を発売予定。常に全力のパフォーマンスとシンプルで熱いメッセージを伝え続ける彼らの姿勢が音楽ファンの大きな共感を呼んでいる。
› Website:https://blueencount.jp


RELEASE INFORMATION
NEW SINGLE
ポラリス
【初回生産限定盤(CD+DVD)】¥2,200+税
【通常盤(CD)】¥1,100+税
【期間生産限定盤(CD+DVD)】¥1,500+税
Ki/oon Music
2019/11/20 Release

Related posts