あなたの知らないレオ・フェンダーの8つの事実
70年以上前、レオ・フェンダーはフェンダーを設立し、多くの革新的な発明によって、その後の音楽シーンに変革をもたらしました。生きていれば今年110歳になるレオの、あなたが知らなかったであろう8つの事実を見ていきましょう。(彼の妻であるフィリスの助けを得ながら)
1.カリフォルニアで農業を営む両親の元に、1909年8月10日に生まれました。当時彼が生まれた場所は、フラートンとアナハイムの境界にまたがっていました。レオのフルネームは、クラレンス・レオニダス・フェンダー(Clarence Leonidas Fender)です。
レオの両親は、メロン、オレンジを栽培しており、それらをロングビーチで販売していました。
2.レオはギターを弾かず、サックスを演奏していました。(ピアノにも少し手を出していました。)レオはギタリストではなく、噂によれば、チューニングの方法も知らなかったようです。しかし、これらの事実は、彼が世界で最も革新的なギターを作り上げることの弊害にはなりませんでした。
前述の通り、彼は全く楽器を弾かなかったわけではありません。学生時代にピアノに興味を持ち、レッスンを受けた彼は、その後サックスを演奏するようになりました。
しかし、彼はラジオや電子機器に強く興味を持つようになった為、サックスへの興味は長続きしなかったようです。
3.レオの叔父、ジョン・ウエストは、レオの電子機器へ関心に大きく寄与しました。カリフォルニア州サンタマリアで自動車のお店を経営していたジョンは、廃棄する予定だった自動車の電気部品をクリスマスプレゼントとしてレオに贈りました。
1年後、レオはジョンの店を訪れ、そこで見たハンドメイドのラジオに魅了されました。これはレオにとって決定的な瞬間であり、ラジオとそのサウンドに対する彼の好奇心を掻き立てました。
4.レオは健康上の理由で第二次世界大戦の徴兵の対象にはなりませんでした。8歳で腫瘍が見つかった彼の左目は、ガラス製の義眼に置き換えられました。その為、最終的にフェンダーにおいて強力なマーケティング部門を率いることになるドン・ランドールとは違い、戦争に行くことはなかったのです。
もし、レオが徴兵されていたら、電子機器をいじくり回す時間がなく、音楽史上最高の発明である、テレキャスターやストラトキャスターが生まれることがなかったかもしれません。
5.レオは会計学を専攻していました。実は電気工学に関して正式な学習はしていなかったのです。彼はフラートンジュニアカレッジで会計学を専攻し、製氷会社や、タイヤ会社などの経理係として働いていました。
しかし、彼の心は常に電気機器に夢中であり、タイヤ会社での仕事を失った後、フラートンでフェンダーラジオサービスを始めました。そこから彼の魔法が始まったのです。
6.レオは2度結婚しましたが、子供はいませんでした。1934年に最初の妻であるエスターと結婚しましたが、彼女は1979年に癌で亡くなりました。その後、1980年にフィリスと結婚しました。
7.レオはカメラとボートが大好きでした。あまり知られていない彼の側面についてフィリスと話をした時、カメラとボートの話を聞くことができました。
「レオは写真には興味がなかったのですが、カメラには非常に関心を持っていました。」フィリスは語ります。「カメラ会社が彼に最新のカメラを送っても、彼は出かけてゴミ箱の写真を撮るでしょう」写真を撮る技術はあまり持っていなかったようです。
「彼はひどい写真家だったんですよ」フィリスは笑いながら教えてくれました。「休暇に出かけた時、私は花と夕日の写真を撮ったのに対して、彼はずっとギアとモーターの写真を撮っていたんです。写真を見ると、まるで別々の場所に行ったようでしたよ」
レオは、ボートも愛していました。少なくとも3艘のボートを所有し、ボート会社のコンサルタントも務めていました。
「レオはきっとベイエリアのデザインボートの会社を支援するでしょうね。デザインのやり取りをして、レオが気に入ったらそれを製作するでしょう」
フィリスはまた、レオの長年のビジネスパートナーであり、友人でもあるジョージ・フラートンがほぼ毎週末カリフォルニア州のカタナリ島周辺をクルーズしていた事も教えてくれました。
8.パーキンソン病と闘病したのち、レオは1991年3月21日に81歳でこの世から旅立ちました。彼はカリフォルニア州サンタアナに最初の妻であるエスターとともに眠っています。
レオは、なくなる前日まで、彼が愛した事をやり遂げていたそうです。