Cover Artist | 菊地英昭(THE YELLOW MONKEY、brainchild’s) -前編-

音が歪みすぎない良さとレンジの広さ。その二つがフェンダーギターのいいところ

日本のロック史に大きな足跡を残したTHE YELLOW MONKEYに加え、自身のソロプロジェクトであるbrainchild’sでも活躍しているギタリスト、菊地英昭がCover Artistに登場。インタビュー前編では音楽との出会い、ギタリストを目指したきっかけ、そしてフェンダーギターとの出会いについて話を聞いた。

ギターを始めたきっかけはジョー・ペリー

──たぶん、こういうお話は久しぶりだと思うのですが、今回は音楽との出会いやギターを弾き始めた頃のことを聞かせていただきたいと思っています。早速ですが、菊地さんは中学2年生の時にエアロスミスのジョー・ペリーに憧れてギタリストを志したそうですが、ジョー・ペリーに憧れる以前から音楽はお好きだったんですか?

菊地英昭(以下:菊地) 好きでした。でも、最初は歌謡曲でした。当時は西城秀樹さん、郷ひろみさん、野口五郎さんの、いわゆる新御三家とか、麻丘めぐみさんとかが好きだったんですけど、ある時、父が当時流行っていた「ビューティフル・サンデー」が収録されているダニエル・ブーンのミュージックテープを買ってきて、車の中でよく聴いていたんです。初めてちゃんと聴いた洋楽のアーティストがそのダニエル・ブーンだったんですけど、エレキギターの音も鳴っていて“何だろう、これ?”って興味津々になって、そこから洋楽とかロックにのめり込んでいったんです。

──ダニエル・ブーンの他にはどんな曲を聴いていたんですか?

菊地 当時は、海外の刑事ドラマもけっこうテレビでやっていたじゃないですか。『刑事コロンボ』とか『特別狙撃隊S.W.A.T.』とか『刑事スタスキー&ハッチ』とか、そういうドラマの主題歌を聴いていました。そこから洋楽のポップス/ロックを聴くようになったんですけど、その流れでエアロスミスに出会ったんです。エアロスミスを好きになる前はベイ・シティ・ローラーズが小学校で流行って、あとクイーンもちょっと流行り始めていて。たぶん『ミュージック・ライフ』とか『ロック・ショウ』とか、音楽雑誌の影響で女子たちが食いついていたんだと思うんですけど、男子たちもクイーンは聴き始めていましたね。僕が最初に買ったドーナツ盤は、実は「キラー・クイーン」なんですよ。だから、音楽の先生という意味では、エアロスミスと言うよりもクイーンなのかな。ギターを始めたきっかけはジョー・ペリーなんですけど、音楽的にはメロディアスなロックが好きでしたね。

──でも、ブライアン・メイには憧れなかったんですね。

菊地 ブライアン・メイに憧れるなんて恐れ多い。だって、絶対に真似できない世界観じゃないですか(笑)。キッスだったらメイクをすれば何とかなるし、エアロスミスもローリング・ストーンズもロックっぽい格好をすれば何となくそれっぽくなるじゃないですか。でも、クイーンは無理。白いタイツは履けなかった(笑)。だから、クイーンは音楽だけ聴いていました。

そうこうするうちに自分もギターを弾きたいと思い始めた時、NHKでエアロスミスのライヴ映像を見たんです。たぶん〈California Jam〉か何かのフェスだったと思うんですけど、ジョー・ペリーを見て“この人みたいになりたい!”と思ったんです。そこからギタリストを目指すのですが、当時、ジョー・ペリーはギタリストというよりもアニメのヒーローに見えましたね。“将来、何になりたい?”と聞かれた子供が“ヒーローになりたい”と答えるのと同じ感覚で、ジョー・ペリーになりたいと思っていたんです。

──それからギターを始めたんですよね?

菊地 いえ、始めようと思ったんですけど、その時は親に許可を得られなくて(笑)。まだ、エレキギターを弾いていると不良と思われた時代だったんです。アコースティックギターは買ってくれたので、初めはそれで練習していたんですけど、どうしたってジョー・ペリーのようにはなれないんですよ。鏡の前に立っても全然カッコ良くない。それでアコギの代わりにホウキを持って、鏡の前でポージングの練習だけしていました(笑)。

中学2年の時、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が大ヒットして、アコギでコピーしようと思って練習を始めたら、たまたまうちに来た祖父が“上手に弾けるならエレキギターを買うお金を出してやるよ”と言ってくれたんです。それで「ホテル・カリフォルニア」を弾いたら認めてくれて、祖父からもらったお金と自分の小遣いを足して、ようやく国産のエレキギターを買ったんです。

──その頃はどんな練習をしていましたか? 

菊地 主にコピーでしたね。ただ、完コピすることはなくて、『ヤング・ギター』のタブ譜を見ながら見様見真似で。高校に上がってもずっとそんな感じでやっていました。自分の中で“これだ!”っていうギタリストがいなかったんです。いろいろなバンドをまんべんなく聴いていたせいか、もちろんジョー・ペリーはアイドルなんですけど、音楽的にエアロスミスに傾倒していたかと言うとそうでもない。ずっと“この人みたいに弾いてみたい!”と思えるギタリストがいなかったんです。そんな時に出会ったのがマイケル・シェンカー。『ヤング・ギター』だったと思うんですけど、たまたま「イントゥ・ジ・アリーナ」ってインストナンバーのタブ譜が載っていて、ちょっと弾いてみたらすっかりハマってしまって。他にも影響を受けたギタリストはいますが、ギターをめちゃくちゃ練習するようになったのはその頃です。それが高校2年生ぐらいです。

シングルコイルの音が欲しい時はフェンダーだった

──フェンダーギターと出会ったのはどんなきっかけだったんですか?

菊地 最初はマイケル・シェンカーとかランディ・ローズとか、ハムバッカーユーザーのギタリストが好きだったから自分もハムバッカーのギターをずっと使っていたんですけど、THE YELLOW MONKEYの前にやっていたKILLER MAYのデビューアルバム『Joy Stick』をレコーディングする時に、プロデューサーから“EMMA君のギターはシングルコイルのほうが合うと思う”と言われて、ハムバッカーで作ってきたギターパートをすべて、プロデューサーが持っているTelecaster®︎でやらされたんです。

sus4を入れる時も、ハムバッカーだと音が潰れちゃうことがけっこうあるんですけど、シングルコイルで歪ませるとそこもちゃんと出てくる。あと、ソロを弾く時もハムバッカーだとコンプレッションが効きすぎて抑揚がつかないけど、シングルコイルだともっと自由にできるとか。そういうことを考えてTelecasterでやらせたと思うんですけど、使ってみたらシングルコイルに慣れていないこともあって、全体のサウンドとしては不本意なところも多少あったんですけど、フレーズを弾く時にはシングルコイルは使えるなって思いました。

──菊地さんがご自身のフェンダーギターを手に入れたのはいつでしたか?

菊地 THE YELLOW MONKEYの人気が出てからです。フェンダーは憧れがありましたけど、やっぱりすぐには買えず、しばらくして日本製のフェンダーの黒いStratocaster®︎とTelecaster Thinlineを使っていました。その後、バンドの人気が出てからStratocasterを買いました。ジョー・ペリーを真似て、黒いボディに黒いピックガードで白いピックアップっていうのをやりたかったんです。70年代にジョー・ペリーがそれをよく使っていたので、黒いStratocasterを買ってピックガードだけ黒に変えたんですよ。それは70年代のStratocasterだったかな。

THE YELLOW MONKEYの名前が世の中に相当知れ渡っていた時期にもかかわらず、ギターは50万円以下という暗黙のルールがバンド内にあって、ヴィンテージは買えなかったんですよ。だから、50年代のStratocasterは買わずに70年代とかレリックを使っていました。レリックか何かのブルーメタリックのStratocasterをけっこう使っていたのかな。「LOVE LOVE SHOW」とか「球根」はたぶんそのギターでレコーディングしているはずです。シングルコイルの音が欲しい時は、そのギターが多かったですね。

──菊地さんにとってフェンダーギターの魅力は、さっきおっしゃっていたように歪ませた時のコードの鳴り方や、ソロを弾いた時の抑揚ということでしょうか?

菊地 もちろん、それもあります。あとはレンジの広さとか、絶対的なローはハムバッカーよりも出るので、ゴンッと行きたい時はそこが魅力ですね。それにバンドでやる時、音を埋めてくれるんですよ。ハムバッカーって真ん中(中音域)に寄っちゃうから、場合によっては逆に音が薄く感じられることもあって、それを補うためにいろいろ工夫もしていましたけど、シングルコイルは逆にレンジが広いぶん音が薄くならないんです。そういうところがバンドサウンドの中では使いやすい。音が歪みすぎない良さとレンジの広さ。その二つがフェンダーギターのいいところかな。僕はそれを求めて使うことが多いですね。

American Vintage II 1972 Telecaster Thinline

>> 後編に続く(近日公開)


菊地英昭(THE YELLOW MONKEY / brainchild’s)
64年、東京都日野市生まれ、八王子市育ち。86年、KILLER MAYのギタリストとしてメジャーデビュー。89年に解散し、同年THE YELLOW MONKEYに参加。2004年の解散後、吉川晃司のレコーディング、ライヴへの参加やアーティストへの楽曲提供なども行い、2008年にインディーズレーベル「Brainchild’s Music」を設立。2016年1月、全国10カ所20公演にわたるアリーナツアー〈THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2016〉を発表。THE YELLOW MONKEYとして15年ぶりの再集結を果たす。2018年、brainchild’sとしてメジャーアルバム第一弾『STAY ALIVE』を発表し、全国14カ所のライヴハウスツアー〈brainchild’s TOUR 2018 -STAY ALIVE-〉を開催。すべてソールドアウトさせる。2023年8月30日(水)、Blu-ray『brainchild’s “sail to the coordinate SIX” Live at Nakano Sunplaza』をリリース。12月28日(木)にTHE YELLOW MONKEYとして日本武道館公演を開催する。
http://theyellowmonkey.jp
https://www.brainchild-s.com

Related posts